南総里見八犬伝より仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌を引用
仁 主に「他人に対する親愛の情、優しさ」を意味している。
思い遣りや優しさは、人生には欠けてはならないことである。時に畜生といわれる生き物にさえ、思い遣りがあることを知らされる。
犬でも、道に倒れた仲間を気遣ったり、別れを惜しむ仕種でいつまでもその場を離れないこともある。
思い遣りは、計算ではない。
無意識に出てくるような感情の一つである。
弱者を助けるということも、それの一つであろう。
さて・・この思い遣り・・仁。
与えすぎると、過保護になる。押し売りになることもある。そこが難しいところである。
困っている人を助けるには、当然ながら優しさがいるが、手助けばかりして、本人が自立できない環境を整えてしまうことが、本当に手助けになるのかは疑問もある。
身体的にハンディを背負っていても、自立を心掛け、実際にそのように動いている人も多い。
一方、身体的には何のハンディもなく、いつまでも精神的な自立さえできないものもいる。よくよく観察してみると、温室育ちがよくわかる。
こういう輩ほど、開口一番優しさが・・などと戯言を言う。
砂漠にいたとしよう。自分の飲み水もあと僅か。
旅を共にして来た者は、途中がぶ飲みをして再三の注意も聞かず、今はもう水もない。
それでも、友に分け与えることができるであろうか・・
優しさが強さであるならば・・・旅の途中でがぶ飲みを制止することもできたではないか・・・
僅かな水を分け与えても・・・それは一時的に喉を潤すだけであり、旅が続けられるか疑問である。
仁のために、自らの命を危険にさらすことが正しい事であろうか・・
これらは・・つまるところ、最初に話した計算である。
思いやる…の究極の形は献身である。我が身も顧みずささげられるか・・・・・
理解するのは容易であるが、悟りの境地に入るには容易ではない。
また、頭でわかるのも容易であるが、身体が解るまでは、汗と涙と稽古がいる。
場数を踏むというのは、ある意味稽古であり実践である。
実践が乏しく、わかったような言葉を発するのはいたしかたない。
若気の至りとでもいおうか。
しかし、それが許される時期というものがある。文字通り若い(実年齢でいうならば、20代前半ぐらいか)
これが、30代・40代となれば、世の中の常識がそれを許さなくなる。
知識だけに偏らず、知恵も使い、なお経験や、敬意を持つというのは大事になる。
恩を仇で返すという言葉があるが・・・反対に恩送りというのもある。
別な言葉に言い換えれば・・・・情けは人の為ならずのように・・・いずれは戻ってくるものである。
善い行いをしておくことは・・・人として生きる道の一つである。